郵政研究所月報

2001.7


巻頭言

kumagai富士山が泣いている

放送大学 客員教授  熊谷 智徳

 20世紀の日本は、前半が軍事大国、後半が工業大国に要言される。そこでは、2つの誤謬を冒したと考える。第1は20世紀前半に、アジア侵攻に為した蛮行であり、第2は後半に為した、国土の無差別工業開発による、自然と社会景観の破壊である。皮相な見方をすると、大陸侵攻に頓挫した日本が、方向を変えて自国へ侵攻した戦果の、荒涼たる繁栄が、現在の国土の姿といえよう。

  この無差別工業開発の象徴に、富士山南面地の工業化を見る(図1)。

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図1 富士市付近の工場景観

 

 スイスがアイガーを眼前に望む、世界の景勝地グリンデルヴァルトを一大製紙工業地にする愚行を想像することができない。われわれは、世界一整った、完全円錐成層火山の景勝地富士山南面の地を、戦後、工業開発特別地域に指定して、歴史尺度からは、正に一瞬のうちに破壊してしまったのである。

 この地では、古くより富士山からの清澄な伏流水を利用して、潤井川の上流8キロ付近の奥地に、伝統的和紙作りが行われていた。
 戦後日本は、工業振興の道を進んだ。重点工業地を指定し、産業社会資本を重点投資した。貧困は、経済発展を憧憬させ、各地は工場進出を歓迎した。
 1960年、この地は、岳南工業特別地に指定され工業開発を進めた。なかでも、人工湾作りが注目される。
 北に富士山を仰ぎ、西に三保の松原を望み、山部赤人を詠嘆させた、古来東海道屈指の景勝地・田子の浦に、130億円を投じて、掘込み式人工港(1万トン、1961年)を開いた。青松白砂が破壊されるとの反対は、大勢から非住民視された。
 港に海外からの木材チップ・パルプの製紙原料、燃料重油を着岸させ、それに富士山からの水を工場で合流させて、製紙工業を発展させていった。
 製紙は、製造工程に大量の燃料と水を必要とし、チップ、ボロなどの原料からの廃物が大量に発生し、水質汚染と、SO2、悪臭の大気汚染の公害発生の高い工業である。
 一日150万トンの製紙廃水が、田子の浦港に流された。港はヘドロの沈殿池になった。
 1971年、富士市の工場での一日の重油燃焼量は、3,200キロリットル、それによる毒ガスSO2の発生量は、一日130トンに達したと推定される。
 日本の高度成長の熟期・1970年、富士市は、公害の地として全国の注目を浴びた。1977年公害病患者が912人、死者が39人となった。
 これらの犠牲による公害規制の強化で、生体的環境問題は、一応解決するに至った。
 岳南工業化で失ったさらに高位なものに、富士山の景観破壊がある。それを加速しているのが、視程の低下である。
 気象用語の「視程」は、黒色の標準の大きさの物体が明るい空を背景として遠ざかり、やがて見えなくなるまでの距離である。空気が完全に浮遊物を含まないと、200kmから300kmぐらいの視程が得られる。 図2は、正月連休終りの夕暮れどき、北関東から南西200kmに眺められた富士山の夕景である。空には灼熱の鉄がだんだん冷えていくに似た赤色の変化がある。そして丹沢・秩父山系の黒の稜線が左右に続く、赤と黒の天地がある。最高の視程の夕暮れだ。20世紀半ばまでは、このような感動の夕暮れや富士山の眺めが、多くの地域から見られたであろう。


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図2 高視程の日の北関東から東西に望む富士山の夕景

 

 環境先進国ドイツ・ハノーバー。メッセ近くの郊外の住宅地区。暮れなずむ街の、雲の棚引く西の空の、変わり行く色彩の1時間。高温に溶けた鉄の湯の色の金色が、橙色に、そしてついに溶暗に変わっていく。雲の周縁の輝き。塒へ飛ぶ鳥の群と群。空と家と通りを、教会の鐘が殷殷と渡り、柵の木を見詰めながら、主婦がペンキを塗っていた。
 世界中、何処でも、晴れた日の昼と夜の境に見られる、天恵の色彩のひとときが、われわれの工業化した街からは、ほとんど消えてしまった。時に赤くくすんだ太陽が、葬送のごとく西へおりていく。
 この一日の、身近な時間と風景の価値を重く見たい。その喪失を重く見たい。

 

 富士市の工場は、一日に水を約200万トン(1991年)使っている。その中の75%が製紙工場で使われる。工業用水の約10%がボイラーを通り煙突から空中に放出される。富士市には約360本の煙突がある。
 煙突からは、さらに微粒子が排出される。これは、水蒸気と作用し合って細かな水滴を作り、淡い靄状になって視程を低下させる。昼間午後の代表的な風向は南々西、駿河湾からの海風となる。これが富士山を南正面から眺めるのを、効果的に妨害するごとく、空中排出物を富士山へ向かって拡散させていく。そのため、晴れた日でも平均約20kmの視程しか得られない。東海道から最も近付く30km付近からでも、富士山は見えにくくなっている。勘繰った見方をすれば、富士山があまりにも美しく、工場があまりにも醜いので、比較を嫌って靄をかけているのかと思いたくなる。

 富士山は世界遺産を申請したが、余りにも開発されたとして斥けられた。われわれがこのままの破壊を続けていくならば、日本と日本人から工業が嫌われ、日本と日本人が世界から軽蔑されることになろう。
 この地への誤りは、後世と世界への責任、戦後の政治責任の歴史事業として、正していかなければならない。補償して工場を撤去し、富士山からの年間約5億トンの湧水で湖を作り、森を育て、自然生態の豊かな地へ復元させる。人工施設は、世界的芸術景観の作品に精選していく。この修正投資の一部は、訪れる人々の100年の入料であがなっていく。

 醜い社会は、いくら金があっても住むに値しないと主張したい。
 富士山を、仮に日本の歴史の諸行をみてきた、純粋な心の化身とみるならば、現在の日本の姿に、彼女はどのような傷心を抱いているであろうか。そしてなお、眼前に繰り広げられる産業による侵食と、景観の破壊と、大量の空中排出物の散布を受けて、どのような心情でいるであろうか。
  私には「富士山が泣いている」と思えてならない。