郵政研究所月報

2001.7

巻頭言
kumagai

「技術の生みの親・育ての親」

早稲田大学理工学部教授  安田 靖彦

 マルチメディアもITもその最も中核的な技術的背景を一つだけ挙げるとすれば、デジタル技術ということになろう。ところが、自然界に存在する物理量たとえば音声、映像、その他は殆どすべてアナログ量である。そこでデジタル的な内部処理を行なう最近の情報通信システムにおいては、これらのアナログ情報をシステムに入力するために、アナログ・デジタル(A-D)変換器というインタフェースが必要不可欠となる。A-D変換の方法には昔から種々の方式が提案されているが、最近では高精度のA-D変換方式として世界的にもデルタ・シグマ(Δ-Σ)変調方式が主流となりつつある。この方式に基づくA-D変換器は、CDをはじめ各種オーディオ機器、携帯電話などの通信機器で広く使用され、その利用は映像機器にまで拡がろうとしている。そのうち世界中で何億個と使われるかもしれない。この方式がこのように最近脚光を浴びているのは、他の方式と比べて、回路内で精度を要するアナログ的な部分が極めて少なく、集積回路(LSI)化し易いことにある。

 私事になって恐縮ではあるが、このデルタ・シグマ変調は今から40年も前、昨年秋に逝去された猪瀬博先生の研究室に私が大学院学生として在籍中、あるきっかけで創案し命名したものである。

 当時はデジタル通信の黎明期で、PCM通信を中心に活発な研究が行なわれていた。若手の助教授であった猪瀬先生は、世界初の全デジタル時分割電子交換機の試作という研究を米国のベル電話研究所から委託され、研究室をあげてその遂行に当たっていた。当時は真空管からトランジスタへの移行期で、デジタル回路は現在からは想像できないほど高価であった。そこでこの試作交換機では通話方式として、PCMではなく回路が簡単なデルタ(Δ)変調を用いることになり、私がその担当者となった。

  昭和35年の秋、先生から我々大学院学生に新しい卒論生に与える研究テーマを考えるように指示があり、ふと思いついたのがこの方式であった。デルタ変調は入力信号の微分値を運んでいるから、受信パルス列を積分することによって原信号を再現する。このために伝送の途中で誤りがあると、後々までそれが影響するのが問題とされていた。これを避けるためには、予め入力信号を積分してからデルタ変調すれば、その出力パルス列は入力信号の振幅値そのものに対応し、受信側では積分操作は不要となる筈ではないか。この考えは一見尤もらしかったが、このままでは実現できないことにすぐ気がついた。直流成分を持った入力信号がくると積分器がすぐ飽和してしまうのである。この困難にたいしては、一両日の間に解決方法を見つけた。この積分器をデルタ変調器のフィードバックパスに存在する積分器と一緒にして差分器直後のフォワードパス内に挿入するのである。この効果は絶大であった。誤り波及がなくなると同時に、入力信号と出力パルス列の積分値の差が常に零レベルとなるようにフィードバック制御される結果、安定度が高く、精度に対する要求条件が緩やかとなる利点が生じた。私には村上純造氏(元東芝、故人)が卒論生としてついたが、同氏は大変有能で半年という短い期間に回路を組み立て、実験データを手際よくとって所期の性能を確かめてくれた。この方式はデルタ変調という既存の技術をベースにしたが、性能が中途半端な後者がその後殆ど実用されていないのに対し、デルタ・シグマ変調は前述の通りの状況である。まさに出藍の誉れと言うべきであろう。

 それから相当な年月が経って、この方式はまず米国で注目され、半導体集積回路技術の進歩とともに世界中でA-D変換器の主役として育てられた。我が国は海外で生まれた技術のシーズを育て上げて製品化するのが得意であると自他ともに認めている。だが、デルタ・シグマ変調方式はその逆の一例である。一つの技術が成功するためには、生みの親・育ての親どちらも大切なのである。