郵政研究所月報

2002.2

巻頭言
fujii

企業的効率と経済的・社会的効率

帝京大学経済学部教授  藤井彌太郎

 市場の自由化や民営化の議論で、効率ということがよく言われる。しかし、人によ って違う意味で使われるので、しばしば混乱が起きる。
 基本的には、効率とは、産出量と投入量の比率であろう。しかし、投入量、産出量と言っても、一様でない。労働生産性と利益(利潤)率はどちらも効率の指標だが、内容はずいぶん異なっている。
 労働生産性の場合には、投入量はたとえば従業員数であり、産出量は郵便物数で、ともに物量である。これを技術的効率としよう。
 民営化すれば効率があがるという場合は、投入量は原価、産出量は収入を意味し、ともに金額表示である。この場合の効率は利益率で示される。これを企業的効率として、経済的効率とは区別しよう。なぜなら、この効率は企業側の利益(生産者余剰)だけを見ているにすぎないからである。
 経済的効率、つまり経済社会にとっての効率を言うのであれば、生産者の利益だけでなくその財サ−ビスの購入者の利益(消費者余剰)も考慮しなければならない。価格が低ければ、企業は赤字になっても購入者は増加し、購入者側の利益は生産者側の赤字を上回るかもしれない。
 また、当事者以外の第三者も利益あるいは損失を受ける。たとえば高速道路の整備で、直接の利用者を越えて沿線地域に広く利益が生じるだろう。むしろ、この外部経済効果が高速道路整備の目的である。他面で、沿道住民は、大気汚染や騒音の公害を被るかもしれない。これらの外部効果は、企業的効率には算入されていない。
 経済社会にとっての経済的効率とは、生産者余剰だけでなく、消費者余剰や外部効果を含めて把握されるべきもののはずである。企業的効率のみに注目する効率論は、視野が狭く、民営化の後に適用すべき概念であって、民営化の理由とするのは本末顛倒である。
 さらに、経済的効率でさえ、社会として求められる効率を表すとは言いがたい。経済的効率では、生産者、消費者、あるいは間接的受益者・損失者に生じる利益とコストは単純集計される。しかし、所得税で累進課税が行われていることからすれば、社会は同じ金額でも帰属先により価値が相違することを認めていることになる。そこで、社会的効率は、そのことを考慮して、単純総和でなく、帰属先によりウエイトを付された総和になるだろう。
 いうまでもなく、このウエイトは価値判断を要する問題であり、市場では決められず、公共的に、つまり国民を代表する政治の手続きを経て、決定されるべきものである。また、それはどの分野にも共通するものでなければならない。
 しかし、個別の分野では、各々の事情は多様であり、施策はそれをも反映せねばならない。そこで、経済的効率を指標としながら、各分野で社会的ウエイトに相応する政策措置を加えることが多い。たとえば、低所得者や過疎地域への通信のユニバ−サル・サ−ビスの提供や、公共用交通の補助などの措置である。
 効率の議論は、内容を明確して行わないと、議論が混乱し、ときにはミスリ−ドするものになる。民営化で効率が改善されると言うときには、企業的効率だけでなく、経済的効率について改善となり、かつ社会的効率の含意に適うものであること(またはそうした政策が平行して採用されること)を示す必要がある。
 さらに、これら資源配分上の効率は、社会にとって価値の一部にすぎない。効率の観点だけでは、施策の評価にもともと限度があることは言うまでもない。