郵政研究所月報

2002.4

巻頭言
mizoguchi

計量経済学的実証分析の発展

郵政研究所長  溝口 敏行

  平成12年度の日本経済学会大会において、大阪大学社会経済研究所教授チャールズ・ユウジ・ホリオカ氏の日本人の貯蓄行動に関する一連の実証研究に日本経済学会中原賞が授与された。この研究のかなりの部分は郵政研究所第二経営経済研究部との共同作業によって実施されたことから、研究所に携わるものとして喜びを禁じえない。同研究は、経済理論に基づいたライフ・サイクル・モデルを計測した上で、日本人の貯蓄行動についての適切な状況判断を行っている。特に従来から問題点として指摘されていたライフ・サイクル仮説の日本の家計への適用可能性を、「遺産動機」の効果と関連付けて明らかにしたことは、わが国の貯蓄行動を説明する上で極めて大きな貢献といってよい。

 これらの貢献がホリオカ教授の優れた洞察力と、共同研究の組織能力に多くを負っていることはいうまでもない。同時にこの研究で利用された『家計における金融資産選択等に関する調査』の役割にも注目する必要がある。この調査は郵政研究所が企画し、民間調査会社が調査結果を作成するという委託事業の形で実施されているものであり、昭和63年度以降2年毎に6000前後の標本数で実施されてきている。調査名から推測されるように金融資産、実物資産、借入金は当然調査の対象となるが、これに加えてマイホームの取得計画、老後の生活、遺産相続に関する意識についての複数の調査項目が含まれている点に特徴がある。一連の研究では、遺産動機の有無、遺産の配分方法の考え方、遺産予定額等でデータをコントロールして分析した結果、日本の家計にもライフ・サイクル仮説が妥当することが明らかにされている。

 この経験は今後の計量経済学的分析に多くの示唆を与えている。経済行動を詳細に分析するには、多数の個別情報が必要となる。このことはわが国でも強く意識されており、政府が実施した調査の個票を「目的外使用」の許可をえて実施した研究も数多く発表されてきている。統計実施部局においても統計調査個票の無記名化を前提とした情報提供の可能性等の研究が行われてきている。しかし、既存の統計調査では分析に必要なすべての項目が含まれているとは限らない。事実今回の研究で重要な役割を果たした遺産動機についての詳細な調査項目は、既存の貯蓄行動の調査には含まれていない。このことは、精密な実証分析には分析目的に応じて設計された調査が不可欠であることを教えている。

 今回受賞の研究が極めて優れたものであることはすでに述べたが、なお残された問題がある。この研究で利用された情報は、世帯間の貯蓄行動の相違であり、これを利用して個々の世帯の時間的行動を類推している。この推論を補強するには個々の世帯の時間的変化を追跡することが考えられる。この種の調査は「パネル統計調査」と呼ばれ、近年関心が高まっている。家計経済研究所による「消費者パネル調査」の継続実施が、平成12年度の日本統計協会賞の対象となったのも、このような理由に基づいている。

 独自に企画された統計調査やパネル調査の実施にはかなりの費用が必要になる。従来多額の研究費が必要な自然科学分野に対して、社会科学の研究は「紙と鉛筆」で可能であるとの認識があった。コンピュータ等の導入もあって、この偏見は多少改善されてはいるものの、基本的にはこの考え方に変化はないといってよい。しかし、ホリオカ教授の研究成果から、社会科学の基礎研究においても適度の研究費が不可欠となりつつあることを読み取ることが必要である。