郵政研究所月報

2003.2

巻頭言
nakagawa

「無線技術の移り変わり」

慶應義塾大学理工学部教授  中川 正雄

 1976年から無線通信の研究を自分なりに始めましたが、当時は通信と言えば、なんと言ってもファイバー通信の研究が主力で、60年代に盛んであったマイクロ波無線中継の無線技術はもう熟した技術になり、ディジタル移動通信の時代まではまだまだの時代で、ちょうどエアーポケット的時代でした。先輩に無線を研究するんだと話をすると、「無線は大学で研究しても意味がない、電々公社の技術だ」と言われたりでさんざんでした。しかし、ともかく目標を見つけたうれしさもあり、始めることになりました。とは言っても、基礎知識もないので、提携校であるドイツはアーヘン工科大学に留学し、助手としてイロハから教えてもらいました。当時そこでCDMAの研究をしていましたが、軍用を目的にしない研究であり、ヨーロッパ中でも珍しかったと思います。助手仲間は結局軍用にしか役に立たないなどと言っていましたが、CDMAでは複数ユーザが同じ周波数、同じ時間を利用できるところや干渉に強いことが気に入りました。
 77年に帰国後CDMAの研究に着手しましたが、80年ころに、CDMAのブームが来ました。夢のセルラー通信方式として新聞の1面トップに載ったりしたのですが、数年後にはブームも冷めてしまい、電々公社でも研究を停止します。郵政省電波研でも縮小の方向でした。私は継続しているうちに企業や大学を集めてスペクトル拡散通信研究会を電子情報通信学会で87年に他の仲間と共に組織しました。第1回目を慶應の三田キャンパスで行ったのですが、人が来るわ、来るわ、100人の会場に倍ぐらい来たのでした。参加企業はバラエティーに富んでいて、家電メーカ、自動車メーカ、部品メーカが多く、通信のプロパーであるほうが少ないくらいです。
 その時思いだしたのは先輩の「無線は電々公社の技術」という台詞であり、これを「無線は消費者の技術」に入れ替えるのが、自分の使命なんだと心に決めて、「コンシューマ通信」という造語をしました。そうこうしていると、米国のベンチャー企業のカルコムがCDMAをセルラー標準に提案し、大きな話題になり、第2次CDMAブームになりました。当時、私はCDMAの中にPHSの技術を入れられないかと考え、91年にTDD―CDMA(Time Division Duplex―CDMA)を提案し、これが後のIMT―2000の世界標準の一つのTD―CDMAの原型になりました。TDD方式は無線LANとセルラー通信を結びつけるに最適な方式であり、今後の4G(第4世代移動通信)にも必ず使われるものと確信しています。プライベートとパブリックという一見反するものを結びつける最適な技術になると思います。
 無線通信の研究を26年間してきて、技術を理解するのに必要なのは、技術をどう見るか、それも技術そのものだけでなく、社会が何を望んでいるかを知ることです。この26年間はパブリックからプライベートな技術への変遷が正解でした。今後は、パブリックとプライベートな技術の融合の時代が来るものと思います。いかがでしょうか?