巻頭言

制度改革と人 −鍵は人の行動−
「没落してゆく民族がまず最初に失うものは節度である」
(アーダルベルト・シュティフター

郵政研究所長 岡野行秀


 バブル経済が破綻し、円高に急速に進んで以来、日本経済は活力を失い「羅針盤を失った漂流する船」に喩えられている。漂流状態から新たな進路を模索するうちに戦後の経済成長の基盤であった経済システムや政治システムの研究が盛んになり、「1940年体制」とか「1955年体制」といった旧システムからの脱却と改革が叫ばれている。住専問題の処理をはじめ、海外における金融市場や商品取引に関連した銀行や商社の不祥事が表面化すると必ず管理システムなどのシステムや制度に問題があったと主張された。昨年10月の小選挙区・比例代表並立制の衆議院選挙は、その結果はさて置き、政治改革を目指して導入された選挙制度による初めての選挙だった。また、昨今の行政改革、公的規制緩和、民営化推進の動きは旧システムからの脱却と制度改革の目玉として扱われている。私は、1970年代はじめから、専門分野だった交通運輸を中心に規制緩和を主張してきたし、行革審の公的規制の緩和に関する小委員会のメンバーでもあったから、システムを改めたり、制度を改革する必要があるという点について異論を押し挟むつもりはないが、制度を改革しさえすればよいと制度いじりに血道を上げることには疑問を抱くのである。
 たしかに、高齢化社会への突入、経済成長の鈍化、円高・国際化の進展等、日本の社会・経済をめぐる環境の変化にともなってこれまでの諸制度の中には「制度疲労」を起こしているものがあり、改革しなければならない。だが、昨今生じている不祥事や日本が直面している問題のすべての原因を制度に帰するのは誤りではないかと考える。
 政治にしても、行政にしても、企業経営にしても、システムや制度はそれらの行動を律する枠組みに過ぎず、現実の成果はその枠組みの下で活動する政治家、大臣・官僚、経営責任者など人間の行動−意思決定−の結果なのである。どのような制度でも、程度に差はあるにしても、意思決定について裁量の余地がある。問題は、その裁量の範囲内でどのような選択をするかである。制度そのものが同じであっても、裁量の範囲内でどのような意思決定をするかで、その結果は、180度異なることはないとしても、大きく異なるのである。例えば、銀行の住専・ノンバンクに関わる不良債権の大きさには銀行間でかなり大きな差がある。望ましくない結果が生じる場合、それは制度に原因があるのか、それとも意思決定に問題があるのかを問う必要がある。今日まで、日本では意思決定に問題があって好ましくない事態が起きても、原因を意思決定の誤りに求めないで制度に帰する傾向があった。意思決定に関わる自己責任と行動についての節度の有無を問うことを避けてきたのではないだろうか。
 政・官・財の不祥事から脱税、横領、日常のさまざまな犯罪の増加まで、これらは制度の欠陥から生じているのだろうか。日本の社会を構成する各層の国民の節度が失われつつあることに起因するのではないだろうか。
 昨年11月24日朝のNHK日曜討論でも「人々の行動のモラルには期待できない。システムを徹底的に変える他ない」と発言する人がいたが、どのような税制改革も脱税を完全に防ぐことはできないといわれるように、政治家から一般国民まで節度を失ったままでは、システムを変える制度を改革しても失望に終わるだろう。国民各層、各個人の節度の回復こそがすべての大前提であり、改革の成否の鍵であると確信する。

*シュティフター著、手塚富雄・藤村宏訳「水晶他三篇」岩波文庫の「石さまざま」の序より引用