No.103 1997年4月

不完備契約、取引費用の理論とその実証可能性

〜契約の経済分析における理論と実証の対話と共有される効率性の基本視角〜

                       第一経営経済研究部主任研究官  和田  哲夫

T.本稿は「不完備契約」と「取引費用」はある意味で同じものだということをその他の理論との対比から示すのが目的である。応用ゲームとしての不完備契約(Incomplete Contract)のモデルは取引費用(Transaction Cost)の理論から問題意識が派生しており、どちらも事前の完備な契約不可能性と、資産特定性(asset specificity)(=関係特定的な埋没資産(relation-specific sunk asset))を軸とし効率性比較を通して制度間の選択、特に企業統合の範囲や企業所有権の問題を分析する。特にホールドアップの問題意識については両者は同じ視角を共有している。そしてその二つは、前者が後者の現実的な問題意識に対して公式的なモデルを与え、また後者は前者に理論の実際の検証可能性を与えるという補完関係にある。
U.取引費用経済学のうち、資産特定性や契約の困難性が現実に企業の統合の範囲や契約期間に影響を与えているかに着目した統計的手法の基本と実証研究の蓄積を紹介し、この分野では理論の実証が可能かつ米国では広範に行われ、日本でも例があるがさらなる実証研究が重要であると主張する。同じく制度を対象とするが制度間の補完性を広範囲に認める比較制度分析(CIA:Comparative Institutional Analysis)に比べると、取引費用経済学の分析単位は取引というもっと小さいものであり、その基本仮説は統計的な実証が可能であることが異なる。不完備契約のゲーム的モデルと取引費用の理論では、基本視角は共通なものの、モデルの厳密性と実証可能性のトレード・オフの意味では差がある。
V.取引費用経済学は、政策上のノルマティブな判断に(あるいは私企業の組織上の経営判断にも)影響する理論であることを簡単に例示する。このノルマティブな判断は(コースが取引費用の概念を提唱して以来)複数の制度的選択肢の効率性での比較が可能であり、また効率性に差があるため現実に効率的な制度選択肢が生き残って観察されているという基本哲学によっている。この点も複雑系の全体システムの中の複数均衡としての分析を強調し、システム単位の比較を多用する進化的な比較制度分析と異なりうる。
W.不完備契約・取引費用の考え方は、費用関数に体現される技術的要因によってのみ企業の境界や望ましい産業構造を説明しようとする旧来の産業組織論とは、効率性の比較が可能だという点では共通である。しかし明示的に制度を分析対象とする点で非常に異なる。そして伝統的ミクロ理論のような費用関数にはあらわせない効率性を肯定するため、非市場的な組織に対してもアプリオリに独占利潤目的のものだという結論とはならず、政府の競争政策上の方向付けが変わりうる。
X.ゲーム理論を多用する新しい産業組織論(NIO:New Industrial Organization)は実証が不可能だと批判されることが多いが、取引費用のモデルである不完備契約モデルはゲーム的アプローチであり、かつ取引費用というレベルで実証可能である。取引というミクロな単位で戦略関係を考えることが不完備契約の理解にとって本質的であるから、ゲーム理論はその意味で不可欠な道具である(CIAのように制度間の補完性や複数均衡は必ずしも関心の中心ではないから、ゲームの有用性も少し意味が異なる)。
Y.限定合理性(bounded rationality)は不完備契約にとっても取引費用にとっても不可欠な前提である。この点はCIAと共通であり、単純なプリンシパル・エージェントモデルのような不完全情報のゲーム理論と異なる点である。