特集

情報通信アプリケーションの現状と可能性

「移動代替通信の可能性」

客員研究員 長谷川 文雄
(東北芸術工科大学デザイン工学部教授)

はじめに

 最近、新幹線の中で、ラップトップコンピュータを叩いている人をしばしば見かけるようになった。先日も、山形から戻ってくる途中、隣に居合わせたアメリカ人が、小さなテーブルの上でノート型パソコンを取りだし、なにやら複雑な見積もりの書類を作成しているをふうだった。そのうち、窓際に置かれていた携帯電話が鳴り始め、席を立つまでもなく、声を潜めてしばらく話し込んでいた。最近は車掌の注意も無視されデッキに向かう人は多くないようだ。やがて、しばらくすると今度は鞄からコードを取り出し件の携帯電話とパソコンを接続し始めた。薄いカード型のモデムだろうか、いとも簡単に差し込んでいる。あの、モデムが発信するときの特有の音が聞こえてきたかと思うと、忙しげにキーボードを叩き始めていた。

 携帯電話とパソコンを組み合わせたモバイルコンピューティングが普及し始めていることはCMで見聞していたが、こうして目の当たりにするのは始めてだった。車窓に目をやると遠くに那須の山々が雪を頂いて白く輝いていた。何か、不思議な感動を覚えたものだった。


1 携帯の展開

 好きなときに、好きなところで、自分の思うままにコンピュータと対話ができる、いわゆるポータブル型のコンピュータのコンセプトはいまから20年ほど前にアラン・ケイによって考えられている。その名もずばり「ダイナブック」である。現在各メーカーが鎬を削って開発を競っている。

 これによりいまでは、電車の中であろうが、喫茶店であろうが、そしてまたベットの上でもコンピュータが自在に使えるようになってきた。まさにフレキシブルオフィスといった表現がぴったりの感じがする。実はこの発想はそれよりかなり以前にあることを知って驚いてしまった。

 トーマス・ジェファーソンが独立宣言を起草したときのデスクが、いまでいうポータブル型だったという。といってもエレクトロニクスとは縁がなく、マホガニーでできた至って簡単な仕組みでできている。

 その大きさは24x30cm程度で、書きやすいように台が傾斜し、さらにインキ、紙、ペンなどの小道具が収まる引き出しもついていた。ジェファーソン自らの改良発案という。

 彼はこの机を持ち歩いて、まさにダイナブックさながらに、森の中でも、自宅でも、時を惜しんであの独立宣言を推敲したのである。

 もちろん携帯電話など夢にも現れない時代だから、できた案文は使者やら伝書鳩で送られたに相違ない。


2 携帯とパーソナル

2-1 携帯の思想

 ここで、「携帯」について少し考察してみよう。

 柏木博によれば、ものをコンパクトのデザインしようというのはデザイン行為の本質の一つだという。コンパクトにすることにより無駄を省き、機能性を絞り、そこに或る思想性を表現することになる。コンパクトにすることにより、まず移動すなわち「携帯」が可能になってくる。さらに、そこにはなにがしかのイノベーションを必要とする。移動はさまざまな環境変化に遭遇する。しかし、いかなる状況でも一定の機能を果たさなければならず、固定型と比較すれば数段優れた技術が必要となる。その機能も基本的には携帯の範囲内で完結しなければならない。

 面白いのはコンパクトになった結果、携帯とは逆に貯蔵の新たな可能性が開けてくる。一昔前のマイクロフィルムなどその好例である。

 コンパクトになって携帯が可能になった結果、注目すべき点はそれまで移動中にはできなかった行為が移動中、ないしは移動先でできるようになってきた事である。ジェファーソンの机は見事にそれを物語っている。

 翻って、情報通信の歴史を考察してみると、携帯し、移動中でもコミュニュケーションできることがイノベーションの基本要件であることがわかる。特に軍事目的を考えれば、きわめて重要な開発要件になる。

 トランジスターラジオは携帯の典型だが、トランジスターが市場化される以前から真空管を用いたポータブルラジオ、トランシーバーは開発されていた。つまりいつの時代でも潜在的に携帯のニーズは高いのである。テクノロジーの包絡先的な進歩の度に、携帯の機能も一段と増すことになる。

2-2 パーソナルの思想

 携帯は基本的にパーソナルユースを前提にしている。江戸の参勤交代のように数百人のオーダーでの移動で携帯するような代物は別として、今日的な意味での携帯は個人の利用目的と見てよい。

 元来、「パーソナル」には、個人、自分だけ、私的、個性化、親展といった意味合いが込められている。それだけに、このパーソナル用の「携帯物」の機能の設定は難しい。個人に帰属するから機能に対する目的も実に多様化している。つまり広範囲にわたった基本機能を保持していなければならない。最小公倍数をターゲットにし、核となる機能は最大公約数になろう。その乖離した部分は個人のオプションとして付加するのが一般的な考えになろう。

 たとえば、携帯電話ではベル音が着信を知らせるが、会議の多い人にとっては不便極まりない。そこでバイブレーション機能が付加機能として求められてくる。

 また、個人が利用者なので廉価でなければならない。個人といっても、その利用対象は子供から高齢者まで、ビギナーからマニアックまで利用対象者層の幅が広い。従って、容易な操作でなければならない。

 さらに、パーソナルには個性的といった意味も含まれている。他にはなく、差別化された特性と見ることもできる。

 このパーソナルと携帯が結びつくとまさに本人のライフスタイルが形成されることになる。実は、移動体通信の技術を考えるとき、これがきわめて重要になってくる。


3 移動代替の萠芽

3-1 勤務のフレキシブル化

 それにしてもどうだろう、いまの通勤地獄は。東京を例にすれば、近隣諸県から毎日、230万人もの人達が通勤して来る。しかもその混雑率は並のものではない。朝日新聞のコラムによれば、満員電車のために肋骨にひびが入ったり、骨折したりするサラリーマンは十年前の5倍。ある医院には月に10人も来たという。

 歴史に名高いゲルマン民族の大移動も及ばないモビリティが日常化していることになる。平均通勤時間は一時間をとうに越えている。

 そんな車中にいてふと考えることは、どうして毎日、オフィスに行かなければいけないのか、という素朴な疑問である。なにも会社をサボるという意味ではなく、東京にあるオフィスでなければ仕事ができないのだろうか、という意味である。

 既にコンピュータソフトの開発や、ある種のルーチン化した業務ではフレキシブルな勤務形態が出現している。また、地域を特定して、サテライトオフィス、リゾートオフィス、ないしは在宅勤務の実験が進みつつある。

 最近では、テレワークとよばれ現在強い関心が持たれている。郵政省郵政研究所の調査研究(平成7年度)によれば、5年後には全労働者の4%に相当する300万人、15年後には1,300万人がテレワーカーになっているものと予測している。

 こうした勤務形態のフレキシブル化に限らず、そもそも移動を何かで代替させるというコンセプトが重要になっている。本来、移動を伴って処理してきたさまざまなトランザクションが、その場にいなくてもできるようになってきたということである。

 東京の江戸川区に出現したある学習塾には、塾といいながら、教室もないし生徒も来ない。先生は電話とファクシミリと簡単なテレビ電話を駆使して、さながら個人教授の状況を作っている。

 都市銀行の中には、家の端末機器を用いて残高照会やら振込を容易にしているところが増えてきた。通信衛星を介して、テレビ会議-実はそのために下打ち合わせで出張したりしているケースもみられるが-を日常時に利用している企業も珍しくなくなった。

3-2 移動を代替させるテクノロジー

 これらの実態を支えている技術はコンピュータと情報通信ネットワークである。通信とは本来、物理的に離れた者同士の距離を縮める機能を持っている。近い将来、ラップトップ型やパームトップ型など広義のパソコンと、大容量、高速の通信ネットワーク(まだ構築中だが)の組み合わせにより、次第に、画像、データ、文字、音声などいわゆるマルチメディア通信によって、好きな時に、好きなところ、もちろん移動体も含めてだが、とコミュニケーションが可能になる。

 現段階では普及の度合いにより、利用できるメディアが限定されている。

 移動体通信を可能にする技術には4つの側面がある。

 第一は、プラットフォームになる携帯端末である。基本的には通信機能を保持していなければならない。PDA,ノート型パソコン、携帯電話、あるいはそれらが組み合わされた複合商品である。携帯の性格からして小形で軽量、頑丈でさらにバッテリーの長時間耐久が基本要件になろう。

 第二は、パイプラインの確保である。

 現在一般的なモバイルでは、どこからでも使えることを前提にすれば、出先から何らかの方法で公衆回線に接続して、目的のサーバー、ないし連絡したい相手と通信することになる。もちろんそれは文字どうり通話可能なエリア内で携帯電話など移動体通信を用いる事も一般化してくるだろう。

 第三は、コンテンツである。

 要は、コミュニュケーションの目的である。

 電子メールにアクセスするのか、何かのデータベースを検索するのか、それにより起動するソフトが変わってくる。

 さらに時代は、仮想の空間自体を創出してそこでのコミュニケーションも「現実」のものになりつつある。結果として、リアリティのある「環境」、「状況」をも遠く離れたかの地に送ることができるようになってきた。それにより、移動の代替化がより促進されることになろう。

 といって、短絡して、人々は次第に動く必要がなくなるという風に解釈してはならない。フェースツーフェースの意味合いがいまとは違った意味で重要になってくるし、またそれをもとめる新たなマーケットが創出されてくるだろう。これについては後述しよう。

 それは結果として人々のモビリティを変え、ひいては都市構造にも影響を及ぼしてくるだろう。例えば勤務形態がフレキシブル化すればオフィスビルの意味合いが変わるとかいうようにである。

3-3 通信メディアの特性 

 ところで、通信メディアには本質的に3つの機能がある。通信メディアといってもさまざまな形態がありうるので、仮に電話を例にして考えてみよう。「代替」「補完」「相乗」がそれらである。代替は文字通り、本来出向いて処理すべきことを電話で済してしまうというものだ。補完は約束の時間を変えたり、確認したりし、人の動きとコミュニケーションをより緊密にする機能である。電話の例ではないが、カーナビゲーションも地図を参照しながら移動を効果的にするという性格からして、補完機能だといえる。

 そして、相乗は電話の最中に会いたくなったり、何かのパーティで知り合いになったことがきっかけになって後に電話するというように、両者の関係が相乗し合うことを言う。一種の雪だるま効果になり、両者のモビリティを一層高めることに繋がる。

 現実にこれらの機能がどのように分担されているのかを調査してみると、代替が大体25%、補完が25%、相乗が50%という結果になる。つまり、現段階では代替ではなく、むしろ人と合う、集まるために電話しているといっても過言ではない。グラハム・ベルが初公開実験で開口一番に電話口にでた助手のワトソンを呼びつけた意味がおぼろげながら見えてくる。電話の普及と共に、人に会うこと、集まることが画期的に容易になったことは想像に堅くない。ちなみに、19959月末の電話契約数は6,077万件、携帯・自動車電話契約数は664万件に達している。


4 楽市楽座 ― サイバースペースの世界

4-1 リアリティのコミュニュケーション

 さらに時代は、仮想の空間自体を創出してそこでのコミュニケーションも「現実」のものになりつつある。結果として、リアリティのある「環境」、「状況」をも遠く離れたかの地に送ることができるようになってきた。

 確かに電話で見る限りにおいては、移動の代替化が進展しているとはいえないが、音声だけでなく、画像情報、さらには近未来にある種の触感情報をもコミュニュケーションできるようになってきた場合、果たしていつまでも、代替化は促進されないのだろうか。

 いな、極端なことをいえば、コンピュータと情報通信ネットワークの融合により、今まで移動を伴って処理されていたトランザクションは次第に居ながらにして済んでしまうだろう。ホームショッピング、在宅診断、在宅学習など提供されるコンテンツには目を見張るばかりである。技術はこの方向で進展するだろうが、それが都市社会における健全な活力になり得るかいなかは別問題である。

4-2 サイバー空間の出現

 信長は、当時、一部の層が独占していた特権的な座や市場の独占を廃止して、商品取引をより自由に円滑に行えるよう楽市令を発布している。自由で活気に満ちた商業集楽をつくろうという発想だといえる。いわゆる楽市楽座である。

1)サイバーコミュニティ 

 その精神を活かし、NTTヒューマンインターフェース研究所がその名もずばり「楽市楽座」を開発している。これはサイバーコミュニティの一形態で通信ネットワーク上に構築された仮想空間に、利用者の分身を送り込み、そこで設定されたさまざまなサービスを享受するとともに、利用者同氏の「偶然」の出会いを重視しているシステムである。

 電子メディアの発達によって、現実には存在しない仮想的なコミュニケーションの環境を作り出し、そこで日常的なインタラクティブなコミュニケーションを可能にするような空間を「サイバースペース」と呼び、インターネット上では、もはや日常化している。

 パソコン通信も一種のサイバースペースといえるが、現段階では記号化されたテキストや若干の図形をやり取りできる状況である。そこに人間をデフォルメしたキャラクターを介在させ、それを動画仕立てにしたメディアに「ハビタット」がある。

2)偶然性と期待感 

 楽市楽座の面白さは信長の精神を活かした自由闊達さにあるといってよい。例えば、街中を散歩しているとばったり知人に合い、そこで喫茶をしながら会話を楽しむという光景が目に浮かぶ。また「倶楽部」のように、どこか特定の場所を訪れれば顔見知りの仲間に会えたり、何か新しい情報を入手できるといった可能性がある。「偶然性」と「期待性」をサイバースペース上で実現させようというのが楽市楽座の発想つながっている。

 より具体的に示すと、デスクワークに疲れて、ちょっとロビーにでも顔をだしてみようかと考えた時、コンピュータネットワークを介在したその「ロビー」のシーンを写しだす。そこに自分の顔をしたモデル(オブジェクトと呼んでいる)をログインさせる。こちらから操作してソファーの方に移動してみると、そこにたまたま仲間の誰か(顔で判断できる)が座っていたりすると、ちょっとお話をしましょうという運びになるわけだ。

 サイバースペースに、ビルディング、道路、広場などの都市施設を組み込んでいくと「サイバーコミュニティ」が形成されてくる。つまり、そこには人間を介在させた一つの社会が生成されることになる。その中に写しだされる広場を訪れてみると、そこでは、何人もの人達が集い、談笑し、議論している場面がわってくる。自伝分がそこに参加したりすると、ある種のプロトコル(手続き)を踏んで仲間入りすることができる。

 これはパソコン通信の未来像とも考えられるが、現実にいま商品化されようとしているのである。たとえば、NTTデータのバーチャルモールはその一例だが、この度横浜市の港北ニュータウンで大規模な実験が行われる。

 現実のまちの空間では図−1 に示すように5つの特性が見られる。項目からわかるように「界隈性」と「視線性」のように相反する特徴があり、それをどう組み込んでいくかが今後の課題になろう。

 さらに現実の空間とサイバー空間の比較をまとめたものが図-2である。

図1

■ まちの特徴
  −サイバースペースへの示唆

発見性:新しいものに気付く
偶然性:予期しない出来事にあう
緊張性:或る種のj緊張感
界隈性:雑多な中で個の埋没
視線性:自分がどう見られているか

図2 リアル空間とサイバースペースの比較

リアル サイバー
人格 非匿名 匿名可
利用時間 拘束 非拘束
物理的移動 必要 必要なし
情報発信/参加 受動的 主体的
対人接触/対応 可能 不可
メディア 5感 視覚・聴覚・触覚
トポス 絶対 相対
空間 物理的に存在 非現実空間創生可能
存在の同時性 不可 可能
移動所要時間 必要 殆ど瞬時
社会規範 存在 模索中


5 やはりリアルな集楽を

 確かにサイバーコミュニティがより鮮明な画質、ごく自然な動きに近づいてくると、それだけリアリティが高まってくることになる。だが、たとえ「広場」で偶然、友人に会えたとしても、握手をして手のぬくもりを確かめあうこともできないし、一緒に酒を酌み交わすこともできない。やはりサイバースペースには限界があるという考えがある一方、いや、インタラクティブなマルチメディアが高度に発達すればそれも可能だと、あくまでもコンピュータとネットワークの限りない進歩を信じる立場など、「電子技術信奉派」、「超現実派」など盛んな議論を展開している。

5-1 電子メディアと現実世界の融合

 こうした二元論的な立場ではなく、電子メディアと現実の世界を融合させて、それまでになかった集楽の世界が演出できる例を考えてみよう。

 1986128日にヒューストンで催された ”Rendez-Vous Houston A city in Concert”と題するコンサートはまさにその好例である。スペースシャトルのチャレンジャーの大惨事を追悼する目的で企画されたイベントである。AV メディアに関する最先端技術を駆使して、街中を一つの巨大なコンサートハールに仕立てあげてしまった。超高層のビル群の壁面には特性のスクリーンが張り巡らされ、陽が落ち、薄暗くなるとその壁面には演奏するミュージシャンやCG風な画像が眩しいばかりに写しだされる。 街の至ることろに設置されたスピーカーからも、地元のTV、FM放送からもライブで演奏される曲が拡がっていく。花火やレーザー光線によりデザインされた映像が空間を飛び交う。公園や広場、それに集会場には地元の人々を始め、遠方からの観光客が集まり、まさに街が一体となって、ロックコンサートの会場と化したようだった。主催者のその後の発表では130万の人が、何らかの形で、このイベントに加わったという。

 これが成功裡に終えたのは企画が優れていたことはもちろんだがライブという同時性と街全体という広域性で一体感を実現させた電子情報メディア技術を評価しなければなるまい。

5-2 電子メディアが主体で現実が従

 このヒューストンの例とは逆に、電子メディアが主体で現実が従になりつつある状況をみてみよう。ここ数年、巨大な収容能力をもった他目的スタジアムが建設されている。そこでは各種のスポーツやライブコンサートが企画されている。特にドーム構造は全天候型とあって人気をよんでいる。ところが、こうした巨大施設で催されるイベント―例えばロックコンサートに足を運んでみると、よほどよい席でもない限り、実際に演奏しているミュージッシャンの挙動はわかりにくい。遠い席からだとマッチ棒の先端のような大きさにしか見られない。

 結局AV機器を通じて臨場性を確保しているといっても過言ではない。大スクリーンに写しだされる映像を見て、ミュージッシャンの一挙一動を理解することになる。こうした状況にいるとふと考えてしまうのは、一体「リアリティ」とは何かという素朴な疑問である。紛れもなく、その空間の中心にはミュージッシャンが汗を飛ばしながら演奏し、その状況を自分も共有しているはずなのだが、実際に伝わってくるのは電子AV機器を介在してである。だとするならば、いっそのこと高品位テレビとハイファィステレオで観ていた方がマシなのではないかという見方もできるだろう。

5-3 現実と電子メディアの葛藤

 とは言え、人工的な状況だが、大スクリーンから目を転じてマッチ棒の先のような映像を観ると、そこには興奮と熱気に包まれた現実の姿が存在するのである。逆説的に言えば、このような空間ではもはや電子情報メディアが組み込まれていなければライブコンサートのような企画そのものが成立しえないとみてよい。支援する技術がなければ、ローマのコロッセウムの規模を超えることはできないだろう。

 そういえば東京の千駄ケ谷に住んでいた頃、マラソンのテレビ中継で自分の家の近くにランナーが近づいてくると、思わず外に飛び出していった思い出がある。沿道には老若男女の人々が並び、盛んに声援を送っている。そして自分のすぐ眼の前を全身汗まみれのランナーがひたひたと駆け抜けていった記憶が生々しい。そこにはテレビっを通じて受ける印象とに大きなギャップがある。

 いま、電子情報メディア群による集楽と現実の人々の集楽との間に新たな問いかけが起きている。


おわりに

 移動代替の可能性について幾つかの観点から考察を進めてきた。コンピュータと通信ネットワークの進歩からすれば、次第にキーボードとディスプレィの前で従来の移動系のトランザクションは代替される方向にいくだろう。それだけコンピュータと対座する時間が増えていくことになる。さらに、ネットワークの中に一つのコミュニティが形成され、それが現実の世界とのインターラクションが乖離し、それ自体が完結した社会を形成する可能性も帯びてきた。移動代替ではなく、移動埋没といってもよい。

 また、携帯化が移動中のコミュニケーションをより容易にし、結果として移動を促進させる機能を保持しているといえる。つまり、いつでも連絡できるという安心感から移動が妨げられるという事態は回避されつつある。

 一方、現実の都市空間は常に人を吸引させ、流動させる仕掛けを内包した機能を本来的に持っている。いな、その機能を喪失し始めたとき都市は確実に斜陽化し始めるだろう。

 都市施設も、複合都市開発やパワーセンター、大型水族館、通年型ウインタースポーツ施設など叡知を絞って新たな賑わいを創出し始めている。人が自由に使える時間が一定だとすると、移動代替化は都市機能と強烈な競争になるときが出現してくるかもしれない。しかし、現実はまだ互いに補完関係にあり、またそれが健全であるのかもしれない。願わくば、それをスタジアムの例にように相乗の方向に進めていきたいものである。



[参考文献]
  1. 柏木博 「移動と携帯の形態INAXBOOKLET 1993
  2. 平成8年版通信白書」 郵政省 1996
  3. 長谷川文雄 「移動代替化社会への移動」 電通報 1992
  4. 立川敬二他 「パーソナル通信のすべてNTT出版 1995