1 はじめに

  有名なBlack=Sholes[1973]のオプション価格モデルから25年が経過し,金融派生商品(デリバティブ)について相当程度知られるところとなった。同時に,さまざまな金融商品に内在するオプション性についても,分析がなされるようになってきた。そこで用いられている基本的な仮定は,無リスク裁定機会が存在しないことである。例えば,いかなる状態が起こったとしてもまったく同一の収益を生むような2つの金融商品AとBがあったとすると,それらの市場価格P(A)とP(B)は等しくなっていなければならない 。もしP(A)<P(B)となっていれば,Aを買ってBを売ることにより直ちに儲けが生じるが,将来追加的な資金支払いが生じるリスクは存在しない。これら2つの金融商品の収益は支払いと受取りが相殺されるためである。このようにリスクを負担することがない「裁定取引」によって(確実な)利益が生じるような機会は,あったとしても直ちに調整されて,均衡では存在しないと考えられている。

 しかしながら,こうした経済学のモデルを現実に適用する場合,取引費用を無視できないことがある。ここで取引費用とは,まず,市場へ注文を出し取引を実行するため証券会社などに支払う売買委託手数料などがあげられる。この他,外為取引をはじめとして対顧客への買値と売値とは同じ値ではなく,この差額は仲介業者へ間接的に支払われる手数料とみなすことができる。金融取引にこうした直接・間接の手数料がかかるのは,東京証券取引所など「証券市場」や外国為替取引などの「市場」を世の中に提供するためには資本設備も人も必要であり,それらのコストを市場参加者が何らかの形で負担しなければならないからである。さらに,取引の意思決定に際しては,投資家サイドでも情報を集めたり分析するなど手間や時間などのコストがかかっている。従って,金融商品を売買する場がそこに存在し,それを利用する費用はいかなる意味でもかからないといった「無摩擦の金融市場」という想定は現実的ではない。その結果,先の例で言えば,価格差が取引にかかるコストを上回るようでなければ,「裁定取引」は行われなくなる。

 また,金融派生商品の価格モデルは,その派生商品を本源的な商品を用いた動的な投資戦略によって複製できるといった原理に基づいている。もし,そのような複製がいつでも可能であれば,金融派生商品の存在意義自体が問題となる。金融派生商品は,より本源的な他の金融商品(の取引)によって複製可能というのであるから,派生商品が存在しなくても特に困らないからである。現実には金融派生商品の市場規模は拡大を続けており,デリバティブに対する需要と供給がある。オプション市場が拡大してきた理由について,Cox=Rubinstein[1985]はデリバティブが取引費用をさまざまな側面で削減するという機能を持つことを挙げている。ある収益パターン(将来収益の確率分布)を持つように金融商品を組み合わせる場合,デリバティブを用いると取引費用が低くなるということがある。例えば投資家の評価関数が,資産価値低下に関して(資産価値上昇に比べ相対的に)大きな負効用をもつような場合を考えてみよう。こうした評価関数のもとでは,資産価値が一定投資家レベルで知られている(後藤[1996])。後で詳しく述べるが,逆乖離の時には,転換社債と交換可能な数の株式を直接株式市場で買い入れるより,まず転換社債を買いいれてから株式に転換したほうが,必要な資金が少なくてすむ。転換社債価格が「低すぎる」ためである。学界やクォンツの間でも,転換社債やワラント債の価格は標準的なモデルに比べて低すぎるということが指摘されている(Iihara=Kato[1994],Kuwahara=Marsh[1994],大嶽=小田=吉羽[1998]) 。ただし,実際の価格を理論(モデル)価格に比べる場合は,その理論モデルが現実に妥当する「正しい」ものかどうかということを確かめる必要がある。例えば Black=Scholes[1973] モデルであれば,原資産の価格過程が伊藤プロセスでドリフト項や分散が時間を通じて一定であること,およびオプションの満期まで無リスク金利が時間を通じて一定であることを仮定して導出されたものである。そうした現実には妥当しないと思われる過程のもとで導出される理論価格が,実用上「正しい」といえるほど現実の価格と外れていないかどうかを考えねばならない。転換社債モデルについて,Takahashi [1995]やKariya=Tsuda [1997]は,こうしたモデルの仮定をより現実的な方向へ修正して価格付けを行う試みといえる。

  株式と転換社債市場の関係を分析した中村=鈴木[1997]は,Exchange Option モデル にもとづく理論上のデルタが,転換社債のオプション部分の価値変化にもとづいて計算したデルタを過大推定することを示した。このことは,株式と転換社債の「終値」の非同期性や,転換社債の値刻みのため(原株の変動に比べ大きすぎるため)ではなく,転換社債価格が株式の価格に比べて遅れて変動するためではないかということを,VARモデルを推定し Granger Causalityを調べて検定している。ただ,なぜそうした遅れが生じるかについては一切触れておらず,裁定取引が行われすばやく価格が調整するはずであるのに,これがなぜおこらないかにまで踏み込んではいない。

  こうしたこれまでの研究成果を踏まえ,ここでは転換社債の理論価格について特定の理論モデルに依存することなく検出でき,しかも先に述べた緩い無裁定条件のひとつとなっている逆乖離を中心に,2つの市場の関連を分析する。仮に逆乖離が頻繁に観察された場合,これを何らかのモデルに基づく"ミスプライス",あるいは市場の価格調整スピードが不充分とみなすよりは,まだ明らかでない取引コスト要因が残されているためと解釈できる。モデル特有の仮定に依存していないからである。このようにモデルに依存しない形で,2つの市場間の裁定関係が十分であるかどうかをまず調べることは,仮定をもとにモデルを組立てこれにもとづいた理論価格と現実価格との対比を試みる前にやっておくべき作業であると思われる。この意味で,やや詳しく実際の裁定取引およびそれにかかる取引コストを吟味し,逆乖離といった"緩い"裁定の可能性を吟味する必要がある。

 具体的には,仮に,株式が(相対的に)高く転換社債が(相対的に)安いという逆乖離が起こっていたとしよう。これを利用した裁定取引によって利益を上げるためには,株式・転換社債の売買にかかる直接的な取引費用のほか,購入した転換社債に転換を請求し株式が届くまでの間,株式の空売りポジションをとる必要があるため,信用取引にかかるコストも考慮する必要がある 。すると,転換社債市場と株式市場との間で一見無リスクの裁定取引機会に見える逆乖離が見られたとき,それが経済学者のいう「無リスク裁定の機会」であると主張するためには,売買委託手数料,税金,株式信用売りに必要な委託保証金(を調達する金利コスト)などの直接・間接の取引費用のほかに,株式を信用売り建てることにともなうオプションのプレミアム(価値)といった取引費用を考慮した上でも利益が上げられたことを示さなければならない。ここでは,信用取引にかかるコストに関しては谷川=古家[1998]にゆずり,ひとまず裁定機会とみなせるような逆乖離がどの程度あったのか,その大きさは直接的な取引コストや転換社債市場での流動性の小ささをカバーできるほど大きかったのかを吟味する。

 以下では,まず2節で1985年から1994年までの10年間の日々データを用いて,逆乖離がどれくらい起こっていたかを調べる。予想通り1980年代後半のバブル期には,相対的に株式市場の方がより加熱気味であったと見えて,逆乖離の現象がかなり多い。しかし,バブル期以外でも4〜5%程度の逆乖離がみられることがわかる。そこで3節では,逆乖離を利用して利益をあげるための取引戦略をシミュレートし,流動性や直接的な取引コストを考慮した裁定機会,裁定利益の状況を調べる。また,ここでは考慮しなかった信用取引にかかる取引コストについて考察し,シミュレーションの結果を解釈する。4節はまとめにあてる。


  1. P(A)=P(B)となることは,いわゆる「一物一価の法則」である。無リスク裁定の機会が存在しないためには一物一価の法則が成立していなければならないが,逆は成立しない。この研究では両者の違いは取り上げない。
  2. これはポートフォリオ・インシュランスを買う(値下がりに保険をかける)投資家のイメージである。Leland[1980],Schwartz[1980] 参照のこと。
  3. 価格の非負性が無裁定条件であることは,次のような考え方に基づく。将来何らかの収入がある可能性を持ち,かつ有限責任性のため追加的に資金を徴収されることがない証券の価格は,非負である。もし価格が負,すなわち将来こうした収入を受け取れる権利を,資金を現在"受け取って"入手できるのであれば,この証券の需要は無限大となり均衡とはいえない。
  4. 転換社債の取引高の分析については,谷川[1996]を参照のこと。


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