3. サヤとりをシミュレートする取引戦略

3.1 転換社債市場における流動性

 転換社債は,発行直後は盛んに取引されるものの以後の取引高は幾何級数的に減少し,日々の取引は特定の銘柄に偏っていることが知られている(谷川[1996])。転換社債の価格が低い理由の一部は,こうした流動性の欠如にもとづく可能性がある。ここで計算した逆乖離は実際の取引ベースの価格にもとづいている。仮に,流動性の欠如ということが,直前の取引で逆乖離となったものの,それに近い価格で取引を試みても売買できないという内容をさすのであれば,「流動性の欠如のため大きな逆乖離も放置される」と主張できよう。直近の(取引に近い)価格で取引できないというのであるから,逆乖離があっても無リスク裁定機会は存在しないことになる。

こうした問題を正面からとりあげるためには,気配値や取引時間といったイントラデイの細かいデータが必要である。値段などの折り合いがつかないため未執行となっている注文のリスト,いわゆる「板」の情報も必要かも知れない。残念ながらこうしたデータは入手可能ではない。ここでは次のような仮想的な"裁定"取引戦略を組み立て,それによって利益があげられたかどうかを検討することによって,これに代えたい。




3.2 逆乖離を利用したサヤ取りの取引戦略

 データセットBで見たように,ここでの逆乖離は必ずしも一日だけ現れて消えてしまうものでない。2日以上続くものが約15,000件存在した。そこで,次のような取引戦略ルールを考える。

1) 日々の株価安値SL(t)とCB価格高値BH(t)でみて,逆乖離が発生していた場合,
2) 翌営業日に株式はδS×SLで指値売り注文を,転換社債はδB×BHで買い注文を出し,
3) 翌営業日の株価安値SL(t+1)が指値δS×SL以上であれば株価安値で,CB高値BH(t+1)が指値δB×BH以下であればCB高値で,それぞれ注文が成立したものとし
4) 株価安値SL(t+1)とCB高値BH(t+1)にもとづく逆乖離を計算した。

なおここで,株式売却に関してはより高い価格での売却を考慮するためδS≧1とし,CB購入に関してはより低い価格での購入を考慮するためδB≦1という定数を設定した。これにより,逆乖離が発生したt日よりも取引が成立しにくい価格での指値注文を出していることになり,流動性が少なく取引が成立しにくい状況を不利な価格によってシミュレートしようとしている。なお3)は,例えば100円で指値売り注文を出した場合,その日の最安値が105円であった場合,これより低い値段でも売却に応じる注文を出していたわけなので,売り手に有利なより高い105円で売却できたものと考えている。約定成立を仮定しているのは,翌日価格が気配値ではなく,実際に取引が成立した価格のためである。最安値で約定が成立した取引高のデータがないため,最低限の取引単位にほぼ近いと考えられる,額面100円当りの転換社債価格を基準にした 。11

 表3に,δS=δB=1とした場合,株式とCBについて0.5%および1%のより不利な条件を設定した場合について,逆乖離となった件数および逆乖離の大きさを掲げた。まず,δ=δ=1の場合は,約900件について平均2.9%(CB価格に対する比率)の裁定利益が上げられる結果となった。連続して2日以上逆乖離となった件数が約15,000あるうち,ここでは最初の日の分は省かれている。省かれる最大件数は15,000のうちの半分であり,3日以上続いているケースが25,000に数多く含まれていた場合は省かれる数はもっと少なくなる。それが一挙に900件に減ったのはなぜであろうか。

 第一の可能性は,転換社債もしくは株式の価格が調整されて,逆乖離の幅が小さくなったというものである。ただこの場合でも平均2.9%,上位20%点は4.1%となっており,これらについては仮想的な取引によって利益があげられたと考えられる。

 第二の可能性は,転換社債(ないし株式市場)で流動性が欠如しているため,逆乖離が生じてもこれを知ってから注文を出しても取引が成立せず,裁定取引がやりにくかったというものである。また,図6にこの900件の分布があるが,サンプルAの相対頻度と比べると,乖離率の小さいデータが少なく,2%あたりをピークとする山ができている。これは乖離率そのものを指定した戦略でなく,転換社債と株式を別々に指し値取引する戦略であるため,どちらかが条件に満たないデータは,結果的に逆乖離となっていても落ちてしまうためと思われる。

 第三の可能性は,ここでの想定が一番厳しい条件を課しているためである。逆乖離となったときのCB価格が100円であった場合を例にとると,δB=1では,翌日の最高値が101円以上であれば購入できなかったと想定したが,100円の買い指値注文での売買不成立が確認できるのは翌日の「最安値」が101円以上の場合である。最安値と最高値の間に100円が入っている場合,実際に取引ができたかどうかは,ここでの情報だけからはなんともいえない。

 今度は,指値を少し変えてみよう。CBを購入する場合,δB=0.995<1として,買い手にとってさらに0.5%有利な,より低い価格でCBを購入する指値注文を出してみよう 。より低い価格での買い注文を出しているので,他の状況が変わっていなければ,売買は成立しにくいはずである 。表3によると,まずδS=1として,転換社債の価格だけを変えた場合では,552件について平均3.3%の逆乖離が検出された。δB=0.99としてさらに買い手に有利にした場合,確かに逆乖離での約定件数が減って298件となった。株価も有利に(より高く)変化させたケースを想定したδB=0.99,δS=1.01の場合,平均3.1%の逆乖離率を想定した指値注文であるが,実際の約定は投資家に有利な平均4.9%の逆乖離率をもつ71件が検出された。

 これらの戦略の結果抽出される乖離率の分布を図7〜図9に示した。分布の形は図6と同様,小さい乖離率のものが少なく,山型になっている。

 上記の取引戦略での指値注文の出し方は,取引成立(約定)しにくいという転換社債市場をシミュレートするために指値を変えた。その結果逆乖離率(2)式のλが大きくなるような指値注文をしていることに留意されたい。先のδB=0.99,δS=1.01の場合,指値の乖離率の最小値は2.0%であるが,これは指値の注文によって確保されている最低値である。実際の約定価格にもとづいて計算される,従って指値注文の段階では確定しておらず不確実な逆乖離率が,これより小さくなることはない。




3.3 売買委託手数料等との比較

 日本版のビッグバンでは,株式などの売買委託手数料の自由化や有価証券取引税の廃止が予定されているが,ここで対象とした期間については,約定代金の大きさによって規定された売買委託手数料と有価証券取引税がかかっていた。転換社債価格が100前後のもの(券面100万円)を1〜2枚購入し,これを株式に転換して売却した場合,約定代金が100万円〜500万円であったとしてみよう。1996年4月時点の手数料率のもとでは,これは(約定代金の)約2%の委託手数料となる。転換社債の購入につき0.9%+1000円,株式の売却から0.9%+2500円,有価証券取引税0.21%という内訳である。約定代金が大きくなるにつれて手数料率は小さくなるようになっており,約定代金が1000万円〜3000万円の場合では約1.4%(=0.55%+26,000円+0.575%+25,000円+0.21%)となる。参考のため,表4と5にこれらの手数料率を掲げた。

 図4ないし表1で,平均の逆乖離率の大きさは約2%であった。サヤ取りをシミュレートする取引戦略による表3では,平均で2.9%の逆乖離率であった。前者は,先に試算した小規模取引の場合の売買委託手数料とほぼ同じ値であり,後者は,やや投資規模の大きな投資家にとっては売買委託手数料のほぼ倍である。もちろん,売買委託手数料は約定価格や取引額をはじめ個々の取引条件によって決まっており,特に株式では取引のあり方が多様であるため,日々ベースの4本値や出来高から算出する"平均的な"手数料から,逆乖離を利用して必ず裁定利益が上げられたとは結論づけられない。しかし,10年間に900件とはいえ,サヤ取りによって利益をあげられる取引ができたように見える。特に,株式,転換社債市場双方での約定成立を見越した1%の幅をつけた指値注文による取引戦略では指値の段階で2%―すなわち直接的な手数料をカバーするに足るだけ―の逆乖離率が保証されており,71件の「結果的に」平均4.9%のサヤをぬく利益をあげられた取引が成立していたのである。




3.4 裁定機会があったように見える理由

 以上の結果を,日本の株式および転換社債市場の価格付けが異常であると解釈すべきであろうか。投資家の選好について儲ける(入手できる)金額が多ければ多いほどよいということしか仮定していない場合でも,リスクを負担することなく儲ける可能チャンスとなる逆乖離の放置される均衡状態というのは,考えにくい。市場に無リスク裁定の機会が存在しなかったことを仮定すると,逆乖離の程度は,さまざまな取引費用の合計がその上限となっているはずである。取引費用を上回る乖離は,裁定取引によって解消してしまうはずだからである。従って,売買委託手数料と有価証券取引税を上回る逆乖離率は,無リスク裁定取引機会がなかったのであれば,別の理由がなければならない。

 我々は,ここでは考慮しなかった取引コストとして,信用取引制度に内在するオプション・プレミアムがもっとも重要と考えている。谷川=古家[1998]でこれをやや詳細に扱うが,簡単にその結果を述べておくと次のようになる。信用取引により株式のカラ売りポジションを取る場合,委託証拠金を調達する機会費用のほかに,将来追加的な維持保証金(追い証)と逆日歩の支払いを要求される可能性がある。これらから信用取引にはオプションが内在しており,このプレミアムも取引費用を構成する。取引費用と観測される逆乖離率とに正の相関があるという仮定をおくことによって,オプション・プレミアムが取引費用の一部を構成することを支持する回帰分析結果を得た。

 また,現在の指値注文制度は,両方で取引が成立することを条件とすることができない。従って,サヤ取りをシミュレートする取引戦略でも,例えば株式の空売り注文は約定できても,転換社債のほうは約定できないという可能性が残る。先の結果は,両方の取引が成立したケースのみを取り上げて逆乖離を計算したものである。もし,片方しか約定できなかった場合,約定した証券について反対売買を行ってポジションを解消する必要があるが,そのとき価格が動いてしまいロスが発生する可能性がある。こうした執行リスクに伴うプレミアムも,ここでは考慮してこなかった取引コストの一部である。


  1. 転換社債1枚の額面である「券面」は100万円であることが多い。取引単位であるこの1枚を売買する場合,転換社債の取引価格は,額面100円あたりで表示した価格を1万倍したものとなる。

  2. 表3から0.5%は平均して約60銭(額面100円当り)低い価格での指値となっている。

  3. 逆乖離のCB価格が高値BHを使っているので,これより低い価格を使った場合も,逆乖離が生じた日の安値BLより高い可能性はある。そのため,逆乖離が生じた日よりどの程度売買が成立しにくい指値注文を出したことになっているかどうかは,やや判断の分かれるところである。



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