2.信用取引制度に内在するオプション


2.1 証拠金

 実際に所有していない株式の売買を行うためには,資力(証券会社の預かり資産金額)や過去の取引経験などから信用取引開始基準に達していると証券会社によって判断されなければならない(以下の説明は,証券外務員必携[1996]による)。実際に信用取引を開始した場合,売買成立から3日目の正午までに,約定代金の30%以上(それが30万円を下回るときは30万円)の委託保証金を証券会社に預け入れる必要がある。このとき一定の代用掛目(現金換算率)で減額されるものの,国債や株式などの代用証券を預け入れることで代替できる。買付代金を借りて購入するカラ買いでは委託保証金に対して買い方金利を支払い,株式を借りて売却するカラ売りでは委託保証金に対して売り方金利を受け取ることになる。投資家がアクセスできる市場金利とこれら信用取引の金利との差額が,当初の委託証拠金に対する取引費用(機会費用)である。

 信用取引では相場(株価)の変動によって計算上の損失が発生することがある。カラ買いについては株価下落,カラ売りについては株価上昇によって発生する計算上の評価損を委託保証金から差し引いた額が,委託保証金維持率(現状では20%)を下回った場合,その差額を3日以内に追加保証金として差し入れなければならない(いわゆる追い証)。この追加保証金の機会費用は,追加保証金の金額そのものではなく,その資金調達コストである金利である。

 例として,カラ売りポジションをとった場合を考えよう。代用証券を持っていなければ,当初に委託証拠金を証券会社に預け,売れた株式の売付代金も証券会社に預託したままとなる。現在の売り方金利は0%であるので,これら預け入れに対して利子はつかない。株価が上昇すると,カラ売りポジションに評価損が発生する。信用ポジションを維持している間に株価が大きく上昇し,計算上こうむった評価損のため維持証拠金率を維持できなくなったとき,追い証が発生する。このときのコストは,追い証が発生した時点で成立している金利である。このように,信用売りポジションは,株式に対するアメリカン・コールの発行サイドに立った投資家と同じように,株価の上昇に応じて資金を供出する「義務」を負う。カラ買いの場合も同様で,信用取引を開始するということは,株価の動きによっては後ほど資金を提供するという義務を受け入れることになる。その意味で,信用取引は維持証拠金という仕組みによって,一種のオプションが内在しているということができる。

 ただ,厳密には株式についてのコールの発行者とはいくつか違う点がある。第一の相違点は,信用取引で預け入れる資金はポジションを解消するときに返済される(引き出せる)から,預け入れる追加証拠金の機会費用を失うにすぎないことである 。1   株式コールの発行者は権利行使請求を受けると,資金の機会費用ではなく,株式価格と権利行使価格との差額をそのまま失なう。第二の相違点は,第一の相違点から派生することであるが,追い証のコストは実際に追い証を預け入れる時点の金利にも依存することである。短期金利が時間を通じて不変という仮定をおかないかぎり,株価と金利(安全資産価格)の2つの状態変数に応じて,追い証のコストが決まる。従って,信用取引に内在するオプションの価値も,これら2つの確率変数によって定められる。株式のコール発行者の場合,権利行使請求があったときに失う金額は,権利行使請求を受けた時点での株価にのみ依存している。

 第三の相違点は,信用取引では,信用ポジションを維持している間は何度でも追加証拠金を請求される可能性があることである。株式コールの場合の権利行使請求は,高々1回である。コールがイン・ザ・マネーになり買い手が権利を行使した場合,コールの権利行使請求を発行サイドにどのように振り分けるかというルールが,発行サイドの誰が請求を受けるかを決める。株価が上昇して計算上損失が発生していても,請求は発行サイドの他の投資家にいく事があり,必ずしも請求を受けるとは限らない。また,いったん請求を受けるとポジションは解消されるので,あとで追加的な請求が来る事はない。

 要するに,信用売りポジションは,(将来の)市場金利と信用取引売り方金利の差のショート(金利を支払う側の)ポジションを,株価があらかじめ定められたバリアに到達するたびに(売り)建てる義務を,信用取引のポジションを維持している間は負っているのである。これは一種のスタンド・バイ・クレディットであり,そのオプション性は明らかである。信用買いポジションも同様のオプション性を持つことは明らかであろう。




2.2 品貸料

 一般投資家が信用取引でカラ売りをする場合,証券会社が証券金融会社から株式を借りてこれを顧客に貸すということになる 。証券金融会社の融資株数(カラ買い建玉残高)を貸株株数(カラ売り建玉残高)が上回った場合,需給のバランスを回復させるため,証券金融会社は証券会社に品貸料を請求する。証券会社はこれをカラ売りをしている顧客に請求する(逆日歩)。

 従って,信用売りポジションには,将来の市場全体でのカラ売り合計が市場全体のカラ買い合計を上回った場合,事前に定められたルールに従って,資金を提供する義務が含まれており,これも一種のオプションである。ここでの状態変数は信用売買の取組みの差であるが,これ自体をブラックボックス化して確率過程と扱うよりは,取引を引き起こしているメカニズムを考慮するほうが望ましいであろう。

 残念ながら,取引を引き起すメカニズムの理論はいくつか提唱されているが,いずれも応用するには扱いが困難である。そもそも同じ価格である投資家は売り注文を別の投資家は買い注文を出すということを説明するため,投資家の異質性を考えることが必要である。さらに,取引が何度も行われている現実を説明するためには,投資家間の異質性が取引によっては一気に解消されないというセッティングが必要となる。これまでに,情報格差(Kyle[1985]),流動性(DeLong et.al.[1990], Campbell=Kyle [1993]),非市場性資産の保有(Pegano[1989], Wang[1994]),見解・解釈の相違(Varian [1989], Harris=Raviv[1993])などがモデル化されてきた 。これら理論モデルは,投資家がどういった状況で売買注文を市場へ出すかを導くものの,どういった状況で信用取引を利用するかまでを理論的に導くわけではない。

 ここでは逆日歩という制度のため,信用売りではそのリスクを負担する必要があり,そのリスク負担に対応するプレミアムが投資家の取引コストを形成することをのみを指摘しておくにとどめる。




2.3 信用取引のコスト

 以上の議論から信用取引のコストは,(当初)委託証拠金を調達する機会費用,維持証拠金が要求されたときこれを調達する機会費用,逆日歩が要求されたときこの額,といった3つの要素から構成される。ここでは,すぐ後(2.4節の最後)に述べる理由から,2週間程度カラ売りをする場合のコストを概算してみよう。

 まず,委託証拠金の機会費用を考えよう。2.1節に述べたように,委託保証金を調達するために必要な金利と,信用売りのポジションを維持している間に支払われる売り方金利 rとの差額が,この機会費用である。信用取引の売り方金利は公定歩合より低い水準で推移しており,1985年から1994年のおけるその差額は,最大2.7%で平均1.5%であった。いわゆる市場金利は公定歩合より高く,例えば2週間のコールレートと比較した差額は,最大4.9%平均3.1%となった 。コール市場に参加出来ない一般投資家投資家にとって,委託証拠金の機会コストはさらに高くなる。そこで,調達金利がr + 5%,信用取引期間を2週間とすると,r - 0.3(r + 5%)* (2/52)の金利を受取ることになる。仮にr = 0であったとしても,この値は -0.058%に過ぎない。

 追い証及び逆日歩の取引コストは,信用取引を開始した時点で覚悟しなければならない(将来の株価によっては必要となる支払いをコミットする)オプションのプレミアムであって,将来の株価などの実現値によってこれらを負担する必要が生じたり生じなかったりする。当初,プレミアム分の金額を誰かに支払うわけではない。実際に請求された追い証や逆日歩は,株価などが違った値(経路)を取っていれば,これより大きくなったかもしれないし,逆に小さくなったかもしれないものである。従って,投資家が負担した追い証調達の機会費用や逆日歩の実現値をもって,これらのプレミアムの推定値とするわけにはいかない。

 そこで,転換社債価格の逆乖離という現象を用いて,信用取引においてこうしたオプションのプレミアムが重要であるかどうかを確認することにする。




2.4 逆乖離

 転換社債の価格(市場価格,額面100円当り)b,株価s,転換価額K,とするとき,パリティPおよびパリティ乖離率λ'は次のように定義される。

ここで,100/Kは転換社債100円分を転換したとき得られる株式数であるから,b/(100/K)(円)は転換社債を株式としてみた場合,1株当りの価格になる。従ってこれと1株当り株価sとを比較しているのが,パリティ乖離率λ'ということになる。

 従って,パリティ乖離率λ'がマイナスとなる場合は,1株を入手するのに転換社債を買ったほうが安くなることを意味する 。このような現象を一般に逆乖離とよぶ。逆乖離になっていれば,転換社債を買って株式に転換してこれを売れば,売買委託手数料や有価証券取引税を別にすれば,差額が儲かることになる。谷川=古家[1998]はこれら手数料は,約定代金が100万円から500万円というもっとも小口の投資家の場合ですら,両方合わせて2%程度と推定している。この手数料を考慮すると,(マイナス)2%以上の逆乖離は,裁定機会がないという仮定を認める限りあってはならないはずである。 ところが,谷川=古家[1998]は,4%を越える逆乖離がかなりあったと報告している。

 その理由は,逆乖離を利用した無リスクの裁定取引のポジションは,株式のカラ売りを伴うためと考えられる。転換社債も株式も,取引成立(約定)から実際に債券や株券が受け渡されるのは,4営業日後である。転換社債を入手してから転換を請求したとして,請求した株式を入手するのに更に10日前後かかる(後藤[1996]など)。従って,裁定取引で利益が上げられるチャンスがあるように見えて転換社債を買ったとしても,これを株式に変えて売却することが可能になるまでに,株価が下がってしまう可能性がある。こうしたリスクを避けるためには,転換社債を買うと同時に株式の信用売りを行い,転換社債を入手し転換請求を行って株券を入手した時点で,信用売りを解消するということを行わなければならない。

 従って,無リスク裁定の機会は存在せず,放置された逆乖離は取引費用がかかりすぎたためと仮定するならば,観察された逆乖離の大きさは,売買委託手数料・有価証券取引税と,株式信用売りのコストである委託保証金を調達する機会費用,追い証のプレミアム,逆日歩のプレミアムから構成されると考えられる。そこで,観察された逆乖離の大きさをこれらで説明することを試みる。



  1. ここでは証券会社(取引所会員)自体の倒産は,考慮外とする。

  2. 証券会社が当該の株式を保有していれば,これを貸すこともある。

  3. 代表的個人のモデルでは同一価格での売買を説明できない。例えば,資産収益率に正規分布を仮定して投資家の期待効用から均衡価格を導いたCAPMでは,投資家全員がマーケットポートフォリオを所有しており,取引のモデルとして適用できないことは明らかであろう。

  4. ただし2週間もののコールについての最大・平均値は,1988年11月から1994年末までのデータから算出した。

  5. 転換社債はクーポンや元本が支払われる社債であるので,株価が低くなっていても社債としての価値があり,これが株式としての価値を上回ることがあってもおかしくない。そのためλ'がプラスとなることは,無リスク裁定機会とは矛盾しない。



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